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①聖書は神の霊感によって書かれました。
②神の三形態(=三位一体)
「父なる神」・「イエスキリスト」・「聖霊」の三つが一セットになっています。
○父なる神
創造主
○イエスキリスト(子なる神)
イエスは神が人の形を取って地上に現れたもので、この世で最高の権威を与えられています。
「イエスの名で祈る」ことは最高の権威で祈ることなので、悪霊が出ていったり、嵐を鎮めることもできます。
イエスを自分の救い主と信じると、人の中にイエスと聖霊が入り、祝福・天国に導かれます。
○聖霊(神の霊)
聖霊は神の霊であり、神の性質・性格を持ちます。
聖霊は吹きたいところを吹いています。
★一方悪霊は聖霊とは正反対のものであり、サタン(悪魔)からくるものです。
この邪悪な悪霊によって、占い・呪い・予言という行為(オカルト行為)が地上で行われています。
(聖書の中に預言がありますが、預言と予言は異なるもので、預言は神からの言葉を預かるという意味であり、預言の中にはこれから起きることも含まれます)
一般の悪霊払いなどは、悪霊を悪霊の力で追い出す行為であり、ヤクザを追い出すためにヤクザを使うようなものです。
つまり、悪霊をより強い悪霊で追い出すことであり、この強い悪霊に支配権を与える、きっかけになります。
この世の多くの霊的現象は悪霊によってもたらされており、悪霊に対抗するには「神・イエスキリスト・聖霊」しかありません。
● 聖書に書かれている救いとは
人は罪をおかしたので、神から離れてしまいました。
神は完全な善なので、罪をその中に入れることができないため、罪を持った者は神の元から離れることになります。神から離れることを死といいます。
一方、イエスキリストは神なので罪をおかしたことはありませんでした。
罪のないイエスに死は無いわけですが、死ななくても良いイエスキリストが十字架の上で死んだ(殺された)ことによって、死んでいる人を神のもとに迎え入れることができます。
つまり、全人類の身代わりとなってイエスが十字架につけられました。
聖書に書いてある「救い」とは、単純にイエスが自分の身代わりになって死んだことを信じれば、その人の人生に祝福が注がれ、天国へ迎え入れられるという極めて単純なものです。
● 「宗教は人を縛るもの」「信仰は人を解放し自由にするもの」
宗教は全て神に敵対するサタン(敵)が作り出したものであり、キリスト教会であっても宗教的になっている部分は敵が作り出したものです。
あまりにも単純な救いの原理に近づけないようにするために、敵は宗教という「人を縛るもの」を作り上げました。
宗教と信仰は同義語のように考えている人が多いですが、全く異なるものです。
・ 「宗教は人を縛るもの」
・ 「信仰は人を解放し自由にするもの」
「イエスキリストが十字架の上で人の身代わりになったことを信じるだけで救われる」という、簡単・単純で最大の祝福はあまりに大きすぎ、皆の目の前にあってもなかなか気づかないのが現実です。
あまりに大きな善も、あまりに大きな悪も人の想定外なので、その存在に気がつかないことが多いです。
聖書には皆が入る「大きな門(滅びの門)」ではなく、皆が気づかない小さい門(救いの門)から入りなさいと書いてありますが、この小さい門(救いの門)はあまりにも大きすぎて気がつかない門です。
一方、「大きな門(滅びの門)」は、エスカレーターのように、そこに行くことが半強制的(縛られている)に決まっている門であり、一般の人には、入るのが当然に見えてしまうキツイ門のことです。
● 祝福の祈り・血潮の守りの祈り
イエスの名によって祈る祝福の祈りは強力です。
その人にとって必要なものが与えられ、悪いものは出ていきます。
悪霊につかれた人・呪いをかけられている人から悪いものが出ていきます。
但し、自分の中に、イエスキリスト・聖霊を入れておかないと、出ていった悪霊はまた戻ってきますし、呪いも排除し続けることはできません。
最強の守りはイエスキリスト・聖霊を自分の中に入れておくことです。
イエスキリスト・聖霊を自分の中に入れておくということは「救い」であり、イエスキリストが自分の罪の身代わりになって十字架の上で死んだことを信じることです。
全人類の罪のために十字架で殺された時に流したイエスの血は、救いの象徴です。
悪霊や呪いという敵からの直接的な攻撃から身を守る(カバーする)ためにはイエスの流した血で自分を守るという祈りが効果的です。
● ヤベツの祈り(聖書の中に隠されていた祝福の祈り)歴代誌第一4:10より
天の神様。
どうか、私を大いに祝福してください。
私の領土を広げてください。
御手がともにありますように。
私を災いから遠ざけ、私が苦しむことのないようにしてください。
私への攻撃が100倍の祝福になりますように。
私を祝福する者が大いに祝福されますように。
イエスキリストの名によってお祈りします。
最後のイエスキリストの名(最高の権威)で祈ることは、祈りに力を与えますので、ここは省略すると力が弱くなります。
最後の二行は追加加筆したヤベツの祈りパワーアップバージョンです。
● 血潮の守りの祈り
イエスキリストが十字架の上で流された血潮で自分全体を覆うことをイメージして以下を祈ることは強力なカバーになります。
天の神様。
どうか、イエスキリストが十字架の上で流された血潮で私をカバーしてください。
敵の攻撃から身を守ってください。
イエスキリストの名によってお祈りします。
イエスキリストが十字架の上で流された血潮が自分全体を覆うことをイメージすることが大切です。
この「血潮の祈り」は実際にやってみると効果は高いです。
ところで、救いや信仰は悩みがある人のものだと思っている人もいますが、そうではありません。
神は人を創造した時、各自に目的を持って神に似せて創造しました。
人が人として祝福された人生を歩むためには、創造主のところに行くことが必須です。
創造主から離れることで私達は本来の力を失います。
人は自分を頼るものですが、力や能力がある人ほど、自分を頼るため、神から遠くなる傾向があり、悩みや試練を通して神・救いに辿り着くケースがあります。
一方、力や能力の有無に関係なく、悩みや試練が無くても、正面から、救いに入る人もいます。
次ページは悩みがある人に対するメッセージですが、真理がコンパクトにまとめられており、悩みの有無に関係なく有効ですので添付します。
真に祝福された人生は、その人を創造した創造主のもとに行くことが基本です。
「私たちは何処から来たのか? 私たちは何者か? 私たちは何処にいくのか?」
■ 私たちは何処にいくのか?
この地上を去ると、どうなるのか?
「死んでしまえば存在が無くなってしまう」
「死んでしまえば楽になる」
「人生をリセットできる」
と考えている人が多いと思いますが、たとえ死んでも、あなたという存在が無くなることはありません。
あなた自身、つまりあなたの「魂」は、永遠に消えることはないからです。
いつまでも存在し続けます。
魂は不滅なのです。
ここを去っても、あなたはまた「別の場所」で永遠に存在し
続けます。
そして、自分の「魂」の行く先は、この地上であなた自身が決めることになるのです。
■ 私たちは何者か?
あなたは偶然に存在しているのではありません。
自分の意思で人生を始めたのでも、自分で生きているのでもありません。
あなたは見えざる力によって生かされているのです。
あなたの命は与えられたものです。
あなたの命は「肉体」と「霊」と「魂」で成り立っています。
あなたが死ぬと、土から造られた「肉体」は土に帰ります。
「霊」は神に帰ります。
でも、あなた自身である「魂」は生と死の境界を越えて永遠にあなた自身であり続けます。
「肉体」を生かしているのは「魂」です。
「魂」を生かしているのは「霊」です。
「霊」を生かしているのは神です。
すべての命は神が与え、神が生かしています。
神の愛で生かされている者、それがあなたです。
誰に愛されなくても神はあなたを愛しています。
「わたし(神)の目には、あなたは高価で尊い。
わたし(神)はあなたを愛している。」
聖書(イザヤ書43章4節)
■ 私たちは何処から来たのか?
わたしたちにはふるさとがあります。
天に故郷があります。
永遠の喜びと慰めの場所です。
そこには、悲しみも、涙も、苦しみも、悩みもありません。
わたしたちの霊はここから来ました。
あなたを喜びと慰めの場所へ導くことが出来るのは、救い主、神であるキリストだけです。
イエスキリストは、あなたにふるさとにある「安息」を与えたいと願っています。
あなたを心から愛し、あなたの罪を赦し、ともに生きたいと願っています。
■ 救い=贖い(あがない)■
「救い=贖い(あがない)」とは、救い主、イエスキリストを自分の心に招き入れることです。
そうすると、天の慰めと喜びが訪れ、あなたは安息を得て全く新しい人に生まれ変わります。
あなたを愛する救い主、イエスキリストと一緒に新しい人生を生きてください。
イエスキリストはあなたに豊かな人生を与えて、喜びと慰めのふるさとに導いてくださいます。
声に出して、こう祈りましょう。
『イエス様、私をいやして、救ってください。
今、私の心にお招きします。
私を喜びと慰めの人生に導いてください。感謝します。』
今、祈ったあなたは新しい人に変えられます。
これからはあなたを愛するキリストが心の内にいて、守り導いてくださいます。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたし(イエスキリスト)があなたがたを休ませてあげます。」
聖書(マタイによる福音書11章28節)
文責 松島修 fpnet@fpnet.com
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